少年時代の思い出  らむ たき(楽夢 大喜)  生家の間取り
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 ☆誕生☆ 

 私は、昭和十八年十一月、大阪は、東住吉区喜連(現在の、平野区喜連)という所で誕生した。この地は、大阪平野の南端で、大和川に近く、周りは、田畑に囲まれていた。

 丁度、第二次世界大戦も末期で、大阪にも米軍機の空襲があったようである。この頃の思い出、と言ってもまだ、一、二歳であったが、わずかに、多分、母親であろう人に抱かれて、防空壕のような所へ何度か避難したことをかすかに憶えている程度である。。しばらくして、母親が亡くなっているので、母親の面影は、殆ど思い出すことはできない。

後年、母屋(父親の兄の家)のおばさんから当時の写真をもらって、初めて、母親の顔が分った。多分、母親が亡くなってから、しばらく経って、父親が再婚し、その後は、その義母に育ててもらっていたので、おばさんも遠慮していたのだと思う。

 ☆農家の手伝いと遊び☆

 母屋(父親の兄の家)は、専業農家であったが、我が家は、父親が中学校の先生で、日曜、祝日、夏休みなどは、農業をするという兼業農家でもあった。この兼業のお陰で、休みの日は、よく田畑の手伝いに駆り出されたなと思っていたが、幸いにも、食べるものに困ったようなことがなかったのは、大変、有り難いことであった。

 学校が休みの日は、農業の手伝いであったが、それ以外は、学校から帰ると外に出て、とにかくよく走り回っていた。今のように、テレビもパソコンもゲームも携帯電話も無い時代であったから、当然ではあったが、外で思いっきり体を動かし、ストレスを発散していたようにも思う。

 稲刈りの終わった田んぼで、草野球をして、お百姓さんに叱られたり、隣村の少年達と、棒切れを腰に挿して、お侍のように、剣術の真似事で、ケンカをしたりと、とにかく、外で遊ぶのが当たり前であった。今の時代では、子供がケンカをすると、すぐに、親が怒鳴り込んでくるような危ないことも日常茶飯事ではあったが、それで、親同士や学校の先生との確執などが起こることは殆どなかった。

 学校では、悪いことをすれば、先生に殴られることも当たり前という認識を少年ながら持っていたように思う。まあ、結構、悪がきであったのだと思う。

 田畑の手伝いで思いだすのは、三つある。

 一つは、当時、当たり前であった汲み取り式のトイレから糞尿を桶に入れて、2キロメートルほど離れた畑に運んだことである。とにかく、重いことと、臭いこと、ポッチャンと跳ねることで、大変、神経を使って運んだものである。今で言う有機栽培をしていたことになるのであろう。

 二つ目は、エンドウの刈り入れ時に、草取りをしていた所、何かグニャとしたものに触れ、びっくりしたことである。何に触れたかというと、大きな青大将という蛇であった。そのときの驚きようは半端ではなく、一緒に草取りをしていた家族も何事が起こったかとびっくりしたようである。この時、以来、どうも蛇が苦手となった。

 三つ目は、夏の暑い盛りの田んぼへの水入れであった。朝早くに、学校へ行く前に、田んぼへ行き、水が無い時は、ため池からの水を引き込んで、一杯にするのが私の仕事であった。夏のことであるから、あぜ道には、私の大の苦手である蛇が必ず、何匹かいるので、少し待って、蛇様が通りすぎてから、あぜ道の漏れを直して回るという毎日であった。

 蛇の話のおまけであるが、当時の家の裏が田んぼであったこともあって、夏には、家の中のふとんの間に潜んでいたり、家の桟のところを這っていて、ぽとりと落ちてきたりということも珍しくはなかった。それだけ、自然に囲まれた環境の中で、育ったということが言えるだろう。

 これらことは、嫌な思い出というよりは、懐かしい思い出として、今、懐かしく思い出される出来事であった。

 ☆家族構成☆

 私の家族は、4人兄弟姉妹と義母の弟、義母の妹の計、8人で暮らしていた時期があった。この時は、弟と二人で、屋根裏を改造してもらった部屋で生活していた。部屋の半分は、改造前の物置、そのままであり、鼠とか蛇も棲んでいたので、あまり気持ちの良いものとはいえなかったが、特別、嫌だという気持ちは持たなかった。ただ、ひとつ、困ったのは、夜中のトイレと、弟が友達の所へ泊まった時に怖かったことである。
 トイレは、1階の一番奥にあったためと、汲み取り式であったため、夜中に行くのは、大変怖かったことを憶えている。余りにも怖かったのか、大人になってからもトイレや2階へ上がる階段にまつわる夢を見ることがあり、懐かしさも相まって、複雑な思いであった。

 ☆懐かしい遊び☆

 次に、昔懐かしい、子供のときの遊びなどについて、書いてみたい。小学生の頃、近所に柔道をやっていたお兄さんがおり、子供達を集めて、俄か道場を開いてくれた。俄かというのは、道場となるような場所がなかったため、長屋の前の道一杯に、古い畳を十枚程敷いて、道場代わりにしていたからであるが、そこで、週に一度、練習をした。 毎日、受身の練習ばかりではあったが、今、思い出すと、大変懐かしく、このようなことを通じて、友達や近所の人達との交流があったということは、大変よき時代であったと思う。
 今のように、テレビやパソコンもなかった時代なので、当然といえば言えるかも知れないが、知らず知らずの内に人付き合いとか助け合いの精神などを学んでいたように思う。

 また、夏になると、長屋の前に、どの家も床机という小さなテーブルを置いて、夕涼みをしたり、時には、子供同士や大人も混じって、将棋を指したりというようなことも日常の風景であった。

 また、「べったん」とよんでいた遊びがあった。紙製の厚紙で出きた相手のものを床に置き、それをもう一枚の自分のものを使って、床に投げつけ、風圧でひっくり返すと、相手のものがもらえるという遊びであった。

 次は、馬飛びと読んでいた遊びで、中腰で、前かがみになった人の背中に手をついて、飛び越える遊びであった。私自身、背が低かったので、大きな人を飛び越えるのは、大変であった。

 それと似た遊びで、「らくだ」と呼んでいた遊びがあり、壁際に、一人が立って、その人の股の間に首を突っ込み、更に、その人の後ろから、股の間に、次の人が首を突っ込むという形で、ラクダの背中を作り出し、それらの背中に飛び乗るという遊びであった。相手チームの人が全員、飛び乗ることができれば、交代し、ラクダが潰れたら、続けて、そのチームがまた乗っかるというような遊びであったと記憶している。

 いずれにしても、当時は、塾というものが殆どなかったし、当然、テレビやラジオもなかったので、子供たちは、外で遊ぶ方法を色々、工夫していたように思う。

 そうそう、そう云えば、缶けりもよくやった遊びの一つであった。
 缶を蹴り飛ばし、鬼さんになった人が、それを拾いに行っている間に、皆が、あちこちに隠れて、それを鬼さんになった人が探し出すという遊びであった。

 まだあった。縄跳びを忘れていた。二人で、大きな縄を回して、その中に、次々と飛び込んで、引っ掛けないようにし、引っかかった人が、縄を回す役を交代するという遊びであった。

 私は、男なので、ここに紹介したような遊びが中心であったが、女の子たちは、おはじきやまりつき、お手玉、人形などで遊んでいたように思う。


  ここで紹介した遊びは、懐かしい思い出として、今でも甦ってくる遊びである。

 ☆悪ガキの頃☆

  小さい頃は、随分、悪ガキであったようだ。継母に反抗していたのかも知れないが、それで、思い出すのは、怒られると、押入れに入れられたり、外に放り出されたりしたことを思い出す。中でも、当時は、物置であった2階に追いやられることである。その当時、そこは、ネズミや蛇が巣くっていたので、今、思い出しても恐かったことが甦ってくる。
  それでも、継母を恨みに思うことは一度もなかった。それ位、平等に扱われていたからだと思う。改めて、継母(養母)に感謝したい気持ちである


 ☆アルバイトの経験☆

  最初のアルバイトは、確か、高校生の頃、年末の郵便局で、郵便物の入庫作業であったと思う。コンベアベルトに、郵便物の袋を乗せるのであるが、見ていて、大変、荒っぽい作業であったと思う。袋の上に乗ったりもするので、なかのものが壊れないかと心配したものである。今は、もう少し、丁寧に扱われているのであろうか。

 
次にやったのが、大学生の頃で、数学と英語の家庭教師であった。ただ、初めての家庭教師であったので、相手の中学生の方には、申し訳なかったが、教え方がまずかったのか、成績があがらず、すぐに、首になったことを記憶している。ただ、言い訳をすれば、家庭教師を入れ替えても、なかなか成績があがらなかったようなので、私の教え方だけの問題でなかったようにも思う。
  
 
その次は、生命保険会社の告知書のチェックのアルバイトであった。これは、血圧などを見て、ある数値以上かどうかを見分けるような仕事であった。

 
その次は、ネジ、鋲を扱う商店で、記憶があいまいではあるが、商品の出し入れや棚への補充などの仕事であったと思う。

 
最後は、魚群探知機を製作する会社であった。今とは違って、回路図に従って、人が配線をするというのが、仕事であり、この経験は、大学卒業後に、入社した医療機器の修理をやるときに、大いに役立ったようだ。自慢ではないが、その時一緒に仕事していた仲間の中では、スピード、見映え共に、一番であったと思う。


<生家の間取り>










 

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