我が家のルーツ   喜連村史の会の活動ビデオ(YouTubeより) 

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 今年の初め、我が家の本家筋の伯母が、96歳で永眠した。その伯母の四十九日法要の席で、親類縁者が集まったとき、当家のルーツの話がでたので、調べてみようと思い立った。
 
 ここで、参考にさせていただいた資料は、前々から当家に所蔵していた「大阪府全志 巻之三(井上正雄著)第九項 喜連村」とインターネットで検索した「古代史雑談(時には古代の話を)」の中の「考察の部屋」にあった「河内息長氏についてのノート」の二つである。 

 当家のルーツをたどっていくと、息長氏という氏族に到達するようです。この息長氏は、古代国家の形成期、天皇家の系譜上や、人名にその名をとどめているようですが、詳しい事は分からないとのこと。ヤマトタケルや神功皇后伝承、継体朝や舒明系との関係などが推測されているようです。

 通常、息長氏の拠点は近江国とされています。「息長」という地名があり、「息長河」という川名は『日本書紀』にも登場するからですが、実は、私が生まれ育ち、今も親族の実家がある大阪市内(平野区)に、その伝承が残っています。

 ひとつは、地下鉄谷町線喜連瓜破駅を降りて大通りを少し西へ進むと、西池善法寺という小さなお寺があり、名前の通り、この寺は、昔あった「西池」という池にかかわる寺ですが、その池の伝承の中に、「息長沙禰王」という人物が登場し、沙禰王の慰霊碑があります。

 そういえば、5年前に無くなった母親が、このお寺によく出入りしていました。勿論、西池では、子供時代、よく遊んでいましたが、その頃は、あまりそう言うことに興味がなく、大きな碑があったこと位しか記憶していません。

 もうひとつ、駅とは反対側で少し離れていますが、楯原神社という神社があり、我が家の氏神様として、子供の初参りをした神社でもあります。この神社は式内社ですが、付近の数社が合祀されています。「日本国最初・神宝十種之宮」などがあり、息長氏に関するものとしては、その「神宝十種之宮」のすぐ横に、「忍坂大中女」の碑があります。高さ数十センチ。大人は、しゃがんで、近づいて見ないと文字は判別しにくいですが、確かに、確認できます。

 この付近には、その昔、古墳が数多くあり、息長氏に関するものと伝えられていたとのこと。「忍坂大中女」の碑は、その古墳の一つから「発見」され、応神天皇妃の息長真若中女命のものであることを示しているようです。いつごろのものか判断は難しいようですが、日本の古墳で墓碑銘が見つかるのは極めて稀で、古墳時代前期や中期では、たぶん一例も確実なものはないといわれているので、これが該当するのか否かは分からないとのこと。

 息長川については、万葉集にでてくる「青みづら依網の原に 人も逢はぬかも 石走る 近江県の 物語りせ」という歌の一説にある「依網の原」を、三河国の「碧海郡依網郷」に、近江を淡海(遠海の淡海)と見る説もあり、依網海のあった辺りは、「河内国丹比郡依羅与左美郷」と「摂津国住吉郡大羅於保与左美郷」であり、「今、大阪市住吉区我孫子町杉本町のあたりは依羅村と呼んでいるところ」で、ここで云っている「息長」の地から、さほど遠くないところです。

 今までのことは、古代の資料からの情報ですが、近世の資料には、「北村某の家記」という謎の史料があります。これは、我が家に所蔵しているものです。あまりにもボロボロになつていたので、最近、復刻版を買い求めました。

 『大阪府全志』第三巻には、この地に残る様々な息長氏関係の史跡と伝承を紹介した後、これらが「此家記より出たものであるかのように書かれています。

 確かに、これを丸ごと史実と考えるのは問題があると思いますが、全くの作り話とするには、作者の想像力が素晴らしすぎるようです。何か、断片的にせよ、それまでに伝わった伝承がなければ、ここまでのものは作れないとのことです。

 「300年前の大和川付替えでできた今川」というお話があったそうですが、この中で、江戸時代に、現在の大和川は付け替えによって作られた人工河川であり、それまでは大阪平野を北上していました。息長川かと考えられている今川は旧大和川系の川であるため、この付け替えによって水源を失い、現在では水路かと思うような小規模なものになっています。

 ところが、この事実(付け替え)のことを知らず、近代の今川を見て、万葉に歌われている「息長川」とはイメージされる規模が違いすぎる、としてこの説を否定する論者がいる、とんでもないことである、というお話でした。

 また、関連する話題として紹介された、平安初期の運河開削計画のこと。和気清麻呂が、天王寺丘陵の西側の低湿地の排水のために運河を造ろうと計画していた、その名残の地名が、近鉄南大阪線の駅名にある「河堀口」とのことでした。この地名は、小さい頃からよく聞いた地名です。

 今までの所から、当家のルーツは、天皇家に関わる、特に、女帝系統の家系のように思われます。まあ、天皇家も何代にもわたって変遷してきているので、日本人の誰もが、ルーツをたどれは、どこかで、天皇家のルーツに関わるのかも知れませんが、大阪府全志のような史書に、当家の名前がでていると、ちょっとうれしい気もします。

<参考文献>

・『大阪府全志 巻之三(井上正雄著)第九項 喜連村』

・『古代史雑談(時には古代の話を)「考察の部屋」
                      「河内息長氏についてのノート」』

・『海人の国、日本 「海人の部屋」「海人系豪族」「息長氏・三上氏・・・」






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